My works are often associated with language. Although in the past, language has usually been just a tool to explain or accompany painted artworks, . I don’t want to use language to talk about my works, but I treat its existence as the theme of my art. The reason I chose language is that I believe it reflects our perception of communities more than any image. And I have been trying to express the textures of this perception.

Although there is a diversity of languages in the world, each character of each language can be considered as just a collection of lines, just like the reading of the Bible can be considered as a mere set of sounds. The meanings of these collections of lines and how they are pronounced depends on the consensus of people, and we can recognize communities from the slight differences between their lines and sounds. We can’t be independent of all communities, though we can belong to multiple communities. (However, it is possible to identify ourselves as independent.) And we cannot belong to all the communities in the world in our short lives. Painting can be independent of language, though this doesn’t mean that it can be independent of all communities because an artwork needs a context to be understood and evaluated. Therefore, those who not just viewers of art as well as , but also artists can’t avoid the influence of the history of art - that is to say, they can’t avoid the social context of communities.

Although we can’t detach ourselves from the communities that surround us, and I have been trying to express this view take an overview of communities by including language in my works. Sometimes the texture printed on paper from carved characters looks like the cutaway of a cell or a tissue sample.

私の作品には、常に文字の存在がつきまとっている。絵画において文字は作品を解説するためのツールに過ぎず、単なる添え物である。このツールによって、私は自分の作品を語りたいのではない。文字という記号そのもの、その存在自体を題材として取り入れているのである。
私が文字を作品のモチーフとして取り入れたのは、文字がどのような絵よりも、その文字を扱う共同体を知覚的に反映しているからである。私は様々な方法で、その知覚のテクスチャーを作り出そうとしている。
世界には多様な文字がある。この文字というものは記号であり、聖書の朗読が音響でしかないように、線の重なりでしかない。その重なりがどういった意味を持ち、どのような音で発せられるかは、人々のコンセンサスによって左右される。この揺れに、私たちはその文字を共有する共同体を、知覚的に捉えることが出来るのである。
私たちはいくつかの共同体に属することは可能でも、無所属でいることは不可能である。(名乗ることは可能かもしれない)また、 我々の短い人生の中で、この世に存在するありとあらゆる共同体に属することも出来ない。
絵は言葉を必要としない。とはいえ、すべての共同体から独立している訳ではない。何故ならば、ひとつの絵画が、人々によって理解され、評価を受けるには、何がしかのコンテクストが必要となるためである。故に、受け手はもちろんのこと、作り手にとっても、これまでの美術の歴史、すなわち共同体の影響は免れない。なぜならば、なんら影響を受けず、全くのオリジナルを生み出すことは、それこそ神以外は不可能であからだ。
この共同体から乖離することは不可能であるが、私は敢えて文字を作品に取り入れることで、共同体を俯瞰しようと試みている。様々な文字の隙間を彫刻刀で彫り、紙に移ったテクスチャーは、時には細胞の断面図や筋肉組織の標本に見える。私は文字を通して、文字のその奥にある人間をモデルにして描いている。

在我的作品中总是存在“文字”这一概念。
 
世界之中的文字具有多样性,这种被称之为文字的东西其实是一种符号,就像是人们朗读圣经时的声音,单纯来说只是音阶的高低,而文字之间的区别也只是线条的重合方式的不同。但文字中蕴含着不同的意义,就在这些微妙的变化之中。我们作为这种“文字”的使用者,将其中情感,感知并且捕捉出来。
 
在绘画中,“文字”常作为解释和辅助绘画的工具存在。但我并不打算用它来谈论我的作品,而是将“文字”存在的本身意义作为我的表现主题。
 
有时,我在不同文字之间的间隙用雕刻刀加以雕琢,在文字与纸面接触之后,印在纸上的肌理看起来就像是细胞的剖面图或者标本组织。而我还将以“文字”作为媒介,借以文字的为“刀”来剖析“人类”本身。
 
之所以选择表达它,是因为我相信其中意义比任何画面都更能够表现出我们对于“共同体”的认知。(PS:这里的“共同体”可以指作是共同社会群体,基于封闭自然环境下的社会关系,如村落,家族。)
 
正如绘画可以独立于语言,但并不意味着它可以独立于人们的认识。因为艺术品需要被周围环境所理解和评估。因此,我们都无法避免受到社会环境和周围群体的影响。不只是观看者这个群体,就连艺术家,也不可避免的受到艺术史的影响,不能摆脱所谓“共同体”带给我们的影响。而这个影响,有时候就表现在我们人类都无法虚拟出我们从来都没见过的东西。所谓的臆想都是由我们记忆中的以往经验组合拼接而成。(就像是中国的龙,是源于多种生物的重新组合。)所以我们创造的物体都是源于我们曾经所见到过的,经历过的。
 
理论上我们不能超脱于“共同体”这个社会群体,尽管我们可以同时属于多个“共同体”,但我们不能独立于所有的“共同体”(当然我们可以把自己看成独立的人)。所以我试图将文字带入作品之中,假借“第三视角”来看待这个“共同体”这个话题。

Back to Top